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最小公倍数・最大公約数と約分・通分

どんぐり倶楽部の掲示板が閉じる直前に、教育関係者と思われるアマドックさんと糸山先生の間で、分数の足し算をするときの通分を、最小公倍数でやるか、各分数の分母をそのままかけて通分するかについてのやりとりがありました。(2010年4月27日~) アマドックさんは前者を、糸山先生は後者という意見です。

言葉を補いながら議論の経緯を追います。

まずアマドックさんの最初の提起。
4/9+3/6 を両者の分母をそのままかけて通分して計算すると、51/54になる。
この分数が3で約分できると気付く子は、計算力がもともとある子以外はなかなかいない。
それよりも、8/18+9/18のように分母の最小公倍数で通分する方がずっと楽に計算可能。

糸山先生の回答
最小公倍数が簡単に見つかるときは見つける?見つからないときは?という混乱させる方法はとらせない。余裕のある子は、どっちでもいい。

そして例として、7/130+5/14の計算を出して、
分母の最小公倍数910を探し出して、分子を7×7+5×65、分母を910として計算するのではなく、
2項の分母130と14をかけた通分し、分子を7×14+5×130、分母を130×14として、次に、分母を7×2×7+5×2×13、分子を2×65×14(=2×5×13×2×7)とすると、
分子の2項と分母は共に2で割れるので、分子は49+325(=324)、分母は910、
分母・分子共に偶数なので2で割って、187/455 と計算すべきである。

そして、この計算方法は、小学校卒業以後の学習につながるとして、
(χ2-χ)/(χ2-1)=χ(χ-1)/(χ+1)(χ-1)=χ/(χ+1)
(χ2+χ)/(χ+2) ÷ (χ+1)/(χ2-4)
 =  (χ2+χ)/(χ+2) × (χ2-4)/(χ+1)
 = χ(χ+1)/(χ+2) × (χ+2)(χ-2)/(χ+1)
 = χ(χ-2)
という例が挙げられています。

また、アマドックさんが指摘する51/54の約分に関しては、2→3→5→7くらいで約分するだけです、というお答え。

それに対するアマドックさんの感想は
糸山先生が挙げた例7/130+5/14 の様な計算は、ほとんどお目にかからない問題で、例が突飛すぎる。
文字式の計算につながるということも理解しがたい。
2→3→5→7くらいで約分する事に関しては、小学生はまだ素数を習っていないので、子どもがに割り切れるかどうかを試すのなら、2→3→5→7 ではなく、2→3→4→5→6→7 と試す子が大部分。
最小公倍数を使えば、4/7+3/14=8/14+3/14=11/14と、非常に簡単に終わるのに、分母と同士を掛け合わせて通分すれば、4/7+3/14=56/98+21/98=77/98=11/14と計算せねばならず、77/98から11/14に約分するために、77と98を、2,3,4,5,7で割り切れるか確かめなければならないので、計算が嫌になってしまう。

糸山先生の回答。
77/98の約分に関しては、「簡単な割り算12題ですね。」
(この部分は、私は、計算練習を多量にやらせなければ、1題の分数計算で、これだけの割り算もやるのだから充分だと言う意味にとりました。)

これに対してアマドックさんが別の例を出してきました。
各項の分母をかけて通分するという方法を「徹底させると」、
8/24+9/18=(8×18+24×9)/24×18=(144+216)/432=360/432=180/216=90/108=45/54=15/18=5/6
となってしまい、非常に大変。

糸山先生の回答は、
分母をかけ合わせる方法を、「徹底」はさせない。本人が楽なほうで結構。「お勧めします」程度。いいのは分母を掛け合わせる方法だけれども、別の方法を選ぶのは自由であり、ただし教える側が「最小公倍数を使って通分すること」を「勧める」ことはあり得ない。

というわけで、一見、物別れに終わっているかに見えるのですが、そうではないという鍵が出てきます。

アマドックさんの発言
本当の理解に根ざした最小公倍数を使った分数の足し算を(学校で)教えてもらいたい

糸山先生の発言
アマドックさんの言葉に同意して、「そうなんです。ところが、これを現場で効果的に実践するには、計算の中で「ついでに」でやっては逆効果だったんです。」
「最小公倍数は最大公約数と一緒にキチンと理解する」べきだ。

ここまでは経験豊かなお二人の考えのまとめです。以下は、経験貧弱な、小学校教育には携わったことがない素人の私の雑感なので、「こんな風に考える人もいるんだな」という程度の気持ちで読み流してください。

私は眠っているときに見た夢を覚えていることはあまりないのですが、20年以上、きまった悪夢を時々見ます。それは、数学のテストで、「解けない、解けない、どうしよう、もう時間がない・・・」という夢。汗をかいて目が覚めて、「ああ、一生、数学のテストは受けなくてもいいんだった」と安堵のため息をつくのです。

分数計算の通分で最小公倍数が見つからない心境は、これに似ています。計算して答えを出すことがゴールなのに、最小公倍数が見つからないために、計算過程が全く前に進まない。時計の針は何故かいつもの2倍速で進む・・・。チャイムが鳴るのも間もなく。

こんな経験ありませんか?

アマドックさんは7/130+5/14などという計算は出てこないとおっしゃるのですが、それは小学校の話で、もっと先になると出てきます。大学受験レベルになると、計算をたくさんの複雑な計算を積み重ねて解答に到達しなければならないこともあります。その時、積み重ねている途中で、一度でも小さい数で構成される分数にまで約分することをせずに先に進むと、だんだん桁数の多い数で構成される分数が出てきます。そうなった場合でも、その時点で通分して計算し、さらに約分できれば、正解を出せる可能性が高くなります。つまり、どんな数字であっても通分・約分できる方法が必要なのです。

そこで、私が独自にやっていた方法は、通分するときに、数をかけた結果で分数を表記せず、□×□のままにしておくことです。上記の糸山先生の2番目の発言のような書き方です。分母130と14をかけて、1820にしたりせず、分母は130×14のままにしておきます。同様に、分子も、7×14、5×130のまま、計算を進めていきます。数が小さい方が、あとあと約分もしやすいからです。

上のお二人のやりとりでは、途中から糸山先生も□×□の形で残さず、かけ算した結果の数にしてしまった表記法、4/7+3/14=56/98+21/98=77/98=11/14における約分の話になってしまっているので、糸山先生は「たいしたことない」、アマドックさんは「これでは子どもは計算が嫌になる」という流れになっています。糸山先生の考えは「たいしたことない」ですが、私は多分、12題の計算でも、アマドックさんのおっしゃる「計算が嫌になる」子どもになってしまいます。

私なら、4/7+3/14を計算するとき、最小公倍数を思いつけば使います。これについては、アマドックさん推奨の方法であり、糸山先生も、「余裕のある子はどっちでもいい」「本人が楽な方でいい」とおっしゃっている通りです。最小公倍数を思いついているのに、わざわざ使わないという選択はしません。でも、思いつかない場合もあるわけです。だから、最小公倍数の通分にこだわると、計算は一歩も前に進まず、時計の針は進む事態が発生します。従って、万能の方法である分母をかけ合わせる術を使うわけです。でも、4/7+3/14=56/98とは書かずに、分子を4×14+3×7、分母を7×14にしておきます。すると、14が九九の7の段にあることはすぐ思いつくので、分子の4×14と3×7および分母は全て7で割れることがすぐわかります。7で割ると、分子は4×2+3×1、分母は1×14(または7×2)。分子の4×2、3×1、分母の全てを割れる数は無いのはすぐ分かるので、分子の足し算を進めます。

以上が私の方法です。要するに、出てきた数を、素数でなくてもいいから、比較的小さい数の□×□の形で残したまま計算を進めるということです。

そして、この方法は、アマドックさんが分からないとおっしゃっていた、先の勉強につながる方法と関係があります。つまり、糸山先生の2番目の発言にある文字式の変形です。ここに上がっている文字式も、x(x-1)/(x+1)(x-1)というふうに、分子はxとx-1、分母はx+1とx-1のかけ算で表せ、そうすることによって、約分が容易になるのです。数字が文字式に変わっただけです。

でも、分母と分子を□×□の形で表記したとき、共通の数字・文字を含む項で約分できることが理解できていないと、せっかくのこの方法も使えません。そこで必要となってくるのが、お二人そろっておっしゃる最小公倍数・最大公約数の正しい理解だと思うのです。

先ほど出てきた数字を使うと、
56=8×7=2×2×2×7
98=7×14=2×7×7
小学校では習わない素因数分解ですが、「1以外の出来るだけ小さい整数のかけ算で表してみよう」くらいでいいかと思います。
そして、この素因数のかけ算の共通部分2×7が最大公約数であり、同じ数ならたくさんある方(2は56の方が3つで、7は98の方が2つで他方より多い)と相手側にない素数があれば、それもかけあわせたもの(この場合は無い)、すなわち2×2×2×7×7が最小公倍数である、ということです。

これが理解できれば、例えば56/98という分数を約分する場合、両方の数の共通部分2×7(つまり最大公約数)で両方を割ってしまうと、これ以上は約分できないと分かるし、1/56と1/98を通分する場合、初めは56と98を掛け合わせたとしても、両者の要素をもれなく掛け合わせた数2×2×2×7×7(つまり最小公倍数)よりは分母は小さくならないことも分かります。

そして、分母同士を掛け合わせても通分できるけど、最小公倍数とはいわないまでも、思いつく範囲で出来るだけ小さい公倍数で通分しておけば、その方が楽だという余裕が出てきます。

以上、素人考えですので、へんてこりんなことも書いてあると思います。教育のプロの方々は、ご容赦の上、ご教示いただければ幸いです。
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どんぐり倶楽部はやがて消滅します

どんぐり倶楽部の掲示板は今春閉鎖されました。役割をほぼ終えた(必要な質問と答えはほぼ出尽くした)からだと思われます。

閉鎖される直前に、教育関係者だと思われるアマドックさんという方が書き込みをされ、糸山先生との質疑応答が繰り返されました。初めは分数の足し算が話題になっていたのですが、アマドックさんの真意は、「どんぐり倶楽部の断定形で語ること」に対する疑問だったようです。

アマドックさんは最後の書き込みで、どんぐり倶楽部のお母さんのブログに、以下の最後のコメントを貼り付けてくださいとおっしゃっているので、遅ればせながら、貼り付けました。

まず、糸山先生のやりとりが不快な印象を与えたことに対しておわびを述べられた後、ご自分の書き込みの真意を語っておられます。

どんぐり倶楽部の理論の根幹部分は大変すばらしいのは確かなことです。それはみなさんのお子さんが立証されているのでここで改めて述べるまでもございませんね。ただ、私が掲示板で伝えたかったのは分数の足し算のことではありません。いってみれば、あんなもの、どっちだっていいのです。一点だけです。どんぐり倶楽部が断定形で語ることがもしかしてこれからどんぐり方式で学ぶはずだったどれだけ多くの子どもたちを失っているかを考えてもらいたかったのです。私のまわりにも、どんぐり倶楽部の良さをうすうす感じている人はたくさんいます。ただあまりにも断定されるから非常に興味があるんだけどついていけないと、みなさん、口をそろえておっしゃいます。それがなければ、どんぐり倶楽部で学んでいるお子さんは、今の10倍以上に、いやもっとそれ以上にふくらんでいたと思います。それだけに残念なのです。皆さんもお気づきだと思いますが、今日本の教育は詰め込みの方へどんどん進んでいます。すぐきれる人間が増え、ますますわけのわからない通り魔的な犯罪が多くなりそうな兆候を感じています。そのような状況の今、どんぐり倶楽部の果たす歴史的役割は非常に大きいことはまちがいありません。もっとやわらかい感じの、外に開かれた新しいどんぐり倶楽部がこれからもっと大きく飛躍していただけるものと期待しております。失礼致しました。(学習相談の記録 BBS 2010年05月01日 extra)

ここに書いてある「あまりにも断定されるから・・・ついていけない」という人たちの気持ちですが、私もよく分かります。私も掲示板を知った頃、非常に反感を覚えていました。いわゆる「学者」でもないのに、信頼できるデータの厳密な検証で導き出した結果を載せた論文を書いているわけでもない人が、こんなにズバズバ決めつけたように「上から目線で」言うなんて、と。我が家の子ども達が問題を抱えていたら、言い方がきつかろうが、断定的であろうが、どんぐり倶楽部の理論を猛勉強したと思うのですが、特に問題がなかったので、「この先生、好きになれないわ」と思いつつも、なるほどと思うコメントが多かったので掲示板を読み続けていました。

この「断定的」ということに対して、糸山先生は、

2010.09/14<追記>※Itoyama注1)理論は予想や仮定でも断定しなければなりません

これは当然です。自分が大学で卒業論文を書いた経験からしても、~かもしれない、~だと思う、~らしい、では論文にはなりません。論文・理論とは、構築した考えを明確に主張する場であり、たとえ将来、ひっくり返される運命にあるとしても、書いた時点では確信したことを書くのですから、断定形です。その理論を受け継ぐ形で発展するにせよ、否定する形で発展するにせよ、元々の理論が、「~かも知れないけど、~かも知れない」というあやふやなものでは、どちらの発展も阻害されてしまいます。ですから、理論を述べた著書「思考の臨界期」において、経験則にせよ確信していることを断定的に書かれるのは、まっとうなことです。

私やアマドックさんが不快に感じたのは、著書ではなく掲示板でのアドバイスの口調が「断定的」なことです。教育しろうとの私ですら不快だったので、教育関係者で経験豊富であろうアマドックさんが不快感を感じるのも当然でしょう。けれども、様々な教育相談でも、回答する教育関係者・児童心理学者も、各々の立場から断定的に言っているのですが、言い方が柔らかいだけです。もし回答が「誤りがあるかも知れないが、私は~だと思います。でも、~という説もあり、また~と言う人もいます」では、相談者は益々混乱するだけですから。糸山先生も、どんぐり倶楽部の掲示板にアドバイスを求められた以上、自分の立場から「断定的」に言うのは当たり前です。まったく考えが異なる先生の掲示板なら、同じ質問に対しても、「断定的に」別の答えが返ってくるはずです。

アマドックさんも言っておられますが、

非常に気になるのは、・・・・・どんぐり倶楽部は思考回路が作られるのはある時期を境目に手遅れだというような言い方をされますよね。そのような言い回しでその年令を過ぎたお子さんをお持ちのお母さんはいかに傷ついているかと思うのです。(4月30日)

同感です。アドバイスにおいては、たとえ理論に全く誤りがないとしても、アドバイスを求めている人の心境と置かれている状況を考慮すべきです。希望を持たせて、何をすればいいかを言うのがアドバイスです。「手遅れです」と言われて、質問者が絶望してしまっては、何の解決にもなりません。

けれども、糸山先生は「手遅れです」と申し渡しているだけではありません。確かに、特定の時期に、特定の部位・能力が発達するということはあります。視力が出る時期に眼帯をすると視力が発達しないというように。でも、ここで問題とされるのは、「思考回路」の発達であり、余程特殊な暮らしをしていなければ、程度の差はあれ、思考回路は発達せざるを得ません。ただ道を歩いているだけでも、向こうから自転車が走ってくれば、このまま歩けば衝突するとイメージし、自転車を避けるという行動をとります。これだって思考です。思考回路発達時期を過ぎてしまっても、ある程度の思考回路はあるのだから、それを有効活用するべきだというのが糸山先生の考えです。ここに、希望が見いだせると思うのです。

ですから、「思考回路作成の旬は過ぎてしまった。もっと思考回路を豊かに出来た可能性をつぶしたことに対して親は責任を感じるべきだけれども、出来ている思考回路を有効活用することで、よい人生が送れるように配慮しましょう」ということです。つまり、問題の指摘と希望・指針をセットにするべきなのです。糸山先生の場合、前半の親の責任喚起の部分が目立っているので、反感を買いやすいのでしょう。もしくは、どこかに両者をセットにしていないコメントがあったのかも知れません。子どもの成長は待ったなしなのだから、今すぐにでも親は真剣・本気になれ、という気持ちが強いのでしょう。

世の中に全くハンディの無い人はいないと思います。私自身、幼稚園から今まで、薬と縁が切れたことなど一度もありません。幼稚園の頃には既に貧血で、息が切れやすいし、おまけに、喫煙したこともないのに肺気腫気味です。小学校時代は目が過敏で、日当たりに出ただけで充血。溶連菌感染も長く治らず、抗生物質を飲みつつ、しょっちゅう扁桃腺を腫らして40度の熱。中学に上がる頃から、偏頭痛が始まり、一度起これば数日連続なので、中学~大学時代で頭が痛くない日と痛い日は半々くらい、保健室の常連客でした。自分が自由に使える時間は、他の人の半分だと思い定めてやりくりしていました。

健康のこと、家庭環境など、探せば誰でもハンディはあるはずです。

そのハンディが「思考回路」の量であった場合、どうすればいいか。アドバイスは正しい現状認識を教えると同時に、常に希望と指針を与えて終わればいいのです。

この掲示板のやりとりを読んで、私自身は糸山先生より、アマドックさんに似ている気がしました。恐らくアマドックさんは、他人との衝突を避け、熟慮してから慎重に発言するタイプではないかと思います。掲示板は何年も前からあったのに、やっと発言されたということは、よくよく考えた末のことだったと察しています。

ところで、「断定的」だから、どんぐり倶楽部は嫌だと言われることがあるのですが、そもそも、「どんぐり倶楽部」などという団体はありません。私も入会してメンバーになったわけではないのです。入会も退会も、会費も入会金もありません。

どんぐり倶楽部憲章は、

1.子供達の力を信じる          
2.無理なく無駄なく効果的な学習指導をする
3.<考える力>を身につけさせる     


2と3は、どんぐり理論を知れば分かるように、手荒に要約すれば、文字・数字・記号などの操作ではなく、イメージを大事にする学習法によって、考える力をつけることです。イメージを大事にした学習法を選んでいる人たちの、あるようで無いような、意識的・無意識的つながりがどんぐり倶楽部です。

ですから、糸山先生は断定的だ、けしからん、もう関わりたくないと思っていても、イメージを大事にした丁寧な学習指導をしていれば、「心ならずも」どんぐり倶楽部に入ってしまっています。それくらい、どんぐり倶楽部は、組織とは言えない、アバウトなものです。

でも、HPには、どんぐり倶楽部を「設立しました」と書いてあります。あえて、どんぐり倶楽部の組織的な機能を書くとすれば、途方に暮れた親の相談窓口の選択肢のひとつになっていることでしょう。相談窓口には色々ありますが、学習と子育てを分離しない、どんぐり倶楽部の理論の観点からのアドバイスを聞いてみたいと思った時に、メールで非常に気軽に相談できます。勉強のことも、子育てのことも。先生に相談するのは気おくれするなら、どんぐり倶楽部方式経験者の親のネット上の集まりがあるので、より気軽に話が聞いてもらえます。この集まりでさえ、入会したり退会したりする集団ではありません。

私の勝手な推測ですが、実は、このような曖昧模糊(あいまいもこ)とした、あるようで無いような存在の仕方は、当初から目指されていたのかもしれません。国の学習指導要領のような強制的な物ではなく、親・教師が自ら選んでやってみて、特定の年齢・学習分野だけではなく、子どもの何年にもわたる成長を見た結果、どんぐりを知ってよかったと思う人が自然に増える。(勿論、実証の結果、修正も加えながら)そういう人が、親・教師の先輩として、相談にのったり、助言したりする。その先輩・後輩の関係のあり方には、公園で、先輩ママが若いママの悩みを聞いて、赤ちゃんを寝かせるコツを伝えるような気軽な関わり合いも含む・・・。つまり、どんぐり倶楽部の理論を多かれ少なかれ取り入れているという点で、直接接触したことがなくても、つながりはある。でも、関わり方は自由(利用するだけの人もいれば、教育者として積極的に取り入れる人もいる)。そういう人たちをひっくるめて「どんぐり倶楽部」が存在しています。

そして、HPのどこだったか検索して見つけられないのですが、「どんぐり倶楽部はやがて消えます」といった趣旨の言葉がありました。多くの教育関係者が、考えるとはイメージし、それを操作することであって、2+3=5 という数字と記号の並び方を覚えることではないと気付いたとき、メソッドに細かい違いはあれ、イメージを大事にした教育法が当たり前になり、とりたてて、これを「どんぐり方式」と言う必要さえなくなることを、期待を込めて予言した言葉だと思います。

(追記)アマドックさんが「どうでもいいこと」と書いておられる分数の計算方法の掲示板でのやりとりを読むと、一見、考えが対立しているような印象を持たれる人が多いかも知れません。でも、私には、お二人が対立しているようには思えず、どちらの言い分も「ごもっとも、ごもっとも」と思って読んだのですが、どうでしょうか?まとまれば、私の感想を記事にしようと思います。アップできたら、「小学校教育にはしろうとである者の考え」として、軽く読み流してください。

理不尽なこと

私自身が育てられた過程と、自分がパセリとミントを育ててきた経験から、これは「子育てのキモ」ではないかなと思うことがあります。それは、

子どもが理不尽だと感じることをしないこと。

子どもは親(保護者)がいなければ生きていけません。養ってもらわなければ餓死してしまいます。そういう親の立場を悪用すれば、親の自分勝手な都合で、スジの通らないことに従わせることが出来ます。子どもは、心の中では「何か変だ」「納得できない」と感じても、大人のように理論武装できないので、ただ「いやだ、いやだ」と言ったり、暴れたりするか、弱い立場を察知して黙って服従するしかありません。

親だって未熟な人間なので、虫の居所が悪ければ、たまには、子どもが理不尽だと感じるような怒り方(八つ当たり、鬱憤晴らし)をすることもあるでしょう。私もそうでした。でも、それがたびたびになると、子どもの心には、ドロドロした汚泥のような気持ちが積もっていくに違いありません。

どんぐり倶楽部の掲示板の過去ログに、反抗的で弟に対して八つ当たりする小学3年生の男の子についての相談があります。「子供の心を尊重する子育ては私には難しく」「厳しく習慣づけをしないとだめ」と先輩ママに言われたこともあり、「毎日口うるさく宿題をさせ、片付けもきっちりできるように言い聞かせて育てて」きたのですが、「口答えがひどくなって」「親子関係がギクシャクし」「下の息子にも八つ当たりする」という相談です。(2009年4月10日)

それに対する回答は、

「毎日口うるさく宿題をさせ、片付けもきっちりできるように言い聞かせて育てて」きたこと(厳しい習慣づけ)は、

お母さんがやってきた、(子供にとっては納得できない)理不尽なこと
※実は、これは何の意味もなく価値もないことです。もちろん、子供に納得できるはずがありませんし、しないほうが自然です。何と言っても、これは大人の勝手な都合ですからね。当然ストレスとなって蓄積され、はけ口を見つけだし、ストレス発散をします。(2009年4月13日)


秋葉原の無差別殺人事件の裁判で、被告が、小学校高学年の時におねしょをしたら、おむつをつけさせられたと言ったそうです。

被告の受けた厳しいしつけは他にも色々あるのですが、私にとっては、この部分が最も胸が痛みました。

ミントも小学校高学年になってもおねしょをする子でした。おねしょの頻度が減らないなら病院に行ったでしょうが、減りつつあったので病気の心配はしませんでした。でも、高学年ともなれば、指摘されなくても、おねしょをしたことを恥ずかしく思うので、ミントの心の方が心配でした。

恥ずかしいという気持ちを小さくするために、

「赤ちゃんは昼も夜もおしっこをするのに、夜、眠っているときにはしなくなるのは、成長に従ってホルモンの分泌のしかたが変わるからだよ。」
とか、
「生まれたときから歯が生えている子もいれば、1年後に生え始める子がいるように、成長のしかたは人それぞれ」
とか、
「臨海学校なんて大丈夫。夏なんだから、すぐ乾く。友達には黙って知らんぷりしておけば、ばれないって」
などなど、手を変え品を変えて、気を配っていました。

おねしょというのは、本人の意志とは関係がありません。高学年ともなれば、指摘されなくても屈辱的に感じるはずです。やりたくてやったわけでもないことを非難されると、子どもは「理不尽」だと感じるでしょう。それに加えて、おむつをつけさせるというのは、屈辱に屈辱を重ねることになります。心はズタズタでしょう。

「世間体(せけんてい)・みえ」などの親の都合で、子どもをねじ伏せないこと。
親の方が口達者のことを利用して、子どもをあなどって、自分勝手な理論(屁理屈)で操縦しないこと。

つまり、

子どもが理不尽だと感じるようなことをしないこと。

そのためには、子どもの気持ちがわかる、子どもを感じることが出来る、子どもに共感できなければならないでしょう。また、親自身が自分勝手な都合にとらわれて子どもに接していないか、自分の心のあり方を問う事が出来なければなりません。完璧にすることは難しいですが、それでも、ていねいに子どもの気持ちをくみ取っていくことが、暴力や暴言の無い思春期につながるのではないか。子どもたちを中学生・高校生まで育ててきた今、そう感じるのです。

ある思い出

今年のゴールデンウィークは天気に恵まれたので、楽しく過ごされた方が多かったことでしょう。

5月は光にあふれ、緑も美しい季節です。
私もこの季節が好きです。

それなのに、ゴールデンウィークのうちの1日だけ、朝から晩まで泣いていました。
思い出が涙の蛇口を開けてしまったように。

その思い出とは・・・

今年のゴールデンウィークのように明るく晴れた日でした。
私は、まだ幼稚園児・未就園児の子ども達を公園で遊ばせていました。そして、すべり台の一番下から少し離れたところで、他のお母さんたちと、楽しそうな子ども達を眺めていました。

すべり台のそばには一本の木があって、すべり台と、その下にある砂場に、木もれ陽を踊らせていました。

一人の女の子が、すべり台をすべって来ました、お母さんの方へと。
きらきらした瞳が印象的でした。


それから数年後、

その子は亡くなりました。

複数の人が標的にされた無差別犯罪の犠牲者のひとりとして。

今でも、時々その子を思い出しますが、それは事件そのものではなく、参列したお葬式でもなく、あの明るい日のきらきらした瞳をした笑顔です。


事件から数年たって、私はどんぐり倶楽部を知りました。
初めは、ただの面白い問題集だと思っていましたが、その理論を知るにつれ、単なる文章題を解ける力を付けるノウハウではなく、人間というものを深く見すえている点にひかれました。

人間はどんなことも楽しみにする可能性を持つ生き物(それが、犯罪的行為でも)
目にした物事は、その善悪とは切り離されて頭に残る。

人間を育てるときに、絶対忘れてはならないこのことを、他のどこで警告しているでしょうか。
このことの重大さに、誰が気付いているでしょうか。
このことが何を引き起こしうるか、どれだけの人が心に刻んでいるでしょうか。

生物としての人間を研究する人たちが、ぜひ、この点について研究を深めてほしいと思います。


また涙があふれてきました。

命を失ったのは、私でも、私の子どもでもない、偶然にも・・・。
この不条理に耐えかねて、この子の死に意味を見いだしたくなるのは、私だけではないでしょう。

(追記)
この「目に入ること」の重要性と危険性を十分に認識していないと、とんでもない的外れの教育をしてしまうことになります。というのも、視覚イメージは言葉を引き金として再現されることが多いのですが、視覚イメージと言葉は一緒に保存されているわけではないからです。視覚イメージは言葉と切り離されて保存されているのです。ですから、教育の現場では視覚イメージが一人歩きする場合があることを考慮しておく必要があるのです。子供に判断力が育っていない段階で悪い例を見せると、悪い例の「悪い」がなくなって、ひとつの「例」として保存されてしまうからです。言葉よりもイメージのほうがより直接的であり、影響力が強いためです。
(中略)
判断力のない状態では見たものやイメージしたものは善悪の区別なく頭(心)に保存され何の抑制もなく再現されます。そして、体はその再現イメージを無意識に真似するのです。最悪のイメージトレーニングです。
(「新絶対学力」見せる教育・見せない教育)


恐ろしいことにヒトは何にでも快感を見いだすことが出来ます。だから、人間に育て上げるための教育ということが必要なのです。ヒトのままでは人間になれません。ましてや「なぜ~してはいけないのか」という捉え方では何も見えてはきません。(どんぐり倶楽部BBS 2006.10.12)

日本ブログ村

日本ブログ村のエントリーから降りた理由を、色々憶測して、尾ひれの付いた情報が飛びかっていけないので、簡単に書いておきます。

エントリーしたのは、もし上位に入れば「どんぐり倶楽部」の存在を知っていただけるという理由(作戦)でした。上位に入ってからは、宣伝効果を保つため、どんぐり倶楽部の考え方を知らない読者を意識して、私にしては、かなりの頻度で記事を書いていました。

小学校教育に携わっていない人間が、理論とその感想をぶちまけることの厚かましさも承知の上で書いていました。「どんぐり倶楽部」のカテゴリーである理論の方は、アイデアから文章化までが数時間~数週間かかるので頑張ったつもりです。

その結果、数ヶ月前から温めている重要なテーマはあるものの文章化の見通しはたたないし、今書ける主要テーマは書いてしまったので、あえて目立つところにいて読んでいただく価値のあるブログは書けそうもないので、ランキングを降りました。

現在、どんぐり倶楽部本体と、現役の小学校の先生の実践例のブログがランキング表の目に付く位置にあるので、それに加えて、ただの主婦に過ぎない私のブログの文章を読むのは、どんぐりを新たに知ろうとする人にとっては時間の無駄になると思いました。

一言で言えば、どんぐりを知らない人にとっては、私のブログは存在意義が無くなったと判断したと言うことです。

温めている重要テーマのいくつかを文章化できたら、再び戻るかも知れませんが、とりあえす、このへんで、ごきげんよう。
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プロフィール

ハーモニー108

Author:ハーモニー108
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1995年早生まれの男の子(ミント)、1997年生まれの女の子(パセリ)の母親です。主として、目からウロコが落ちるステキな子育て・学力養成の理論&実践方法を提供しているどんぐり倶楽部について書いています。

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