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達成感という甘い罠(わな)

見当外れの無意味な(価値のない)達成感(快感)を味わった幼児は、
無意味な行動でも達成感(快感)を得るために反復行動をとります。
達成感そのものが目標になってしまうと
目標の意味や価値を考える必要を感じなくなり
不毛な行動をとっても平気になります。(どんぐり倶楽部「思考の臨界期」p.466)


大人の仕事(ビジネス)の世界では「やりとげた」という達成感がモチベーション(動機・誘因)として語られます。ある課題があって、それをやり遂げると達成感が得られ、それが次の課題に立ち向かうモチベーションとなり、それをクリアするとまた達成感が得られ・・・という好循環を生むというふうに。

達成感自体に善悪はありません。生理的反応だろうと思います。脳科学では、達成感を感をある種の脳内物質の分泌によって説明されるのかもしれません。

でも、生理的反応だからこそ、つまり、やり遂げた事の内容に関係なく感じる快感であるからこそ、やり遂げる内容が問われなければなりません。内容が悪ければ、好循環ではなく、悪循環になるからです。

先日の「漢字学習」の記事で、漢字ノートを何でもいいから漢字で埋めてくる宿題のことを書きました。ここからは、話を簡単にするための極端なフィクションですが、仮に「明日までに『達』という字でノート3ページを埋めてくること」という宿題が出たとします。子ども達は恐らく、「へん」と「つくり」に分けて、左半分の「しんにょう」だけをズラーッと書き、右半分をズラーッと書くでしょう。それでも、3ページ書き終わった瞬間は「達成感」を感じるだろうと思います。(そのあとで、こんな宿題はこりごりだと思うでしょうが)

学力向上という点から見れば、明らかに無意味な宿題です。これが大人に課せられたことなら、頻度にもよりますが、人格破壊に直結しにくいでしょう。でも、人格形成期の子どもにとってはどうでしょうか。私は子どもの発達の専門家ではないし、多くの子どもの成長を見る職業に就いているわけでもないので、母親としての感覚からしか言えませんが、危険を感じます。幼いほど、社会ではなく、自然の摂理に従わないと、生き物としていびつに成長する気がするのです。

だから、達成感を感じる内容が大事だと思うのです。3ページではなく3行なら、「書き終わったときの、終わった~っていう気分(達成感という快感)がいいんだよね」と言う子もいるかも知れません。そういう子なら、達成感がモチベーションとなって、同じ漢字で3行埋めるという行為を嬉々としてやり続けるという悪循環も起こりうるのです。

では、単純作業ではなく、受験問題のような頭をひねる問題を解けた達成感ならいいのでしょうか。確かに、難問を自力で解けたときの達成感は大きいに違いありません。もちろん、達成感を感じることがいけないのではありません。感じるのが自然です。でも、達成感を「目標」にするのはどうかと思います。これには反対意見が多いと思います。私自身、以前は、この種の達成感を「目標」(エサ)にすることに疑問は感じていませんでした。

難関中学受験を指導する塾では、子ども達が難問を次から次へと解けるようにすることが目標です。どんどん解ければ塾での順位も模試の偏差値も上がり、子どもによっては、難問にチャレンジして試行錯誤することではなく、サクサク解けることの方に強く惹かれるでしょう。そして、この優秀児がそのまま大人になり、東証一部上場企業の社員になると、仕事の課題をサクサク処理できることが幸福の源、自分らしさ・アイデンティティになってしまうかもしれません。

「思考の臨界期」はときに哲学的でもあります。冒頭の引用文の後半は達成感そのものを目標に設定することの愚かさが書かれています。これは、達成感は目標としなくても感じるのだから、それ自体を目標(悪く言えばエサ)として教育手法に取り入れる事を戒めているのだと思いますが、このことは、人生全般に言えると思います。

仕事の出来る人が、非常に苦労してある成果を出す。それによって他人からも評価されるだろうし、たとえ誰も評価してくれなくても、自分で成果の重要性が分かっていれば、達成感・満足感が得られるでしょう。難しい人間関係、過酷な労働などの条件とたたかいながら成果をあげるためには、そうした達成感を心の支えの一つにするのもやむを得ないでしょう。でも、達成感は長くは続きません。だから、達成感で心を支えるなら、一つの成果をあげたら、次の課題が、それが終われば、また次の課題が、と果てしなく課題が必要です。

しかし、ごく一般的な人生では、成果を死ぬまで最盛期のように出し続けることは出来ません。やがて、精神的にも、体力的にも衰えます。病気など思わぬ事で断念せざるを得なくなる人もいるでしょう。そうなると、達成感はもうありません。過去の成果にしがみついてプライドを保つことができるだけです。それは、あたかも、蓄財の成果である預金残高の数字を見て、自分の人生を無理矢理意味づけするような悲しい行為に思えます。

正確で健全な自我を発達させたのち、つぎはどうするのか。自我の目標を達成し、車、家、自己評価を手に入れ、仕事で認められ、物を買い集めたのち・・・こういったことをすべて達成したのち、その先はどうなるのか・・・歴史がもはや魂に意味を与えることができなくなったとき、外界の物質的追求に魅力がなくなったとき、自分を待ちかまえているのが死のみであることが明らかになったとき、どうすればいいのか。
人生に自我的な意味を見出すことは、人生において何かをすることであり、ある時点までそれは適切なことである。だが、自我を超えたところには、そういった種類の意味を超えたものがある。することが減り、在ることが増えるような意味。(ケン・ウィルバー「無境界」平河出版社)


達成感は目標にも、長続きする幸福の源にもなりません。だから、仕事なりプライベートなり、生活のどこかで、生きる過程を、生活そのものを、いま生きていること自体を楽しむことが必要になります。

味わうことの楽しさを小さいときに経験する
これがないと「味わうことの楽しさ」を知らずに大きくなってしまい、
楽しい人生であっても(人生を味わうチャンスがあっても)
味わうことができなくなってしまいます。
味わう術を知らないとは実に悲しいことです。
(中略)
勝敗や出来る出来ないは関係ありません。
味わうことに成功すればいいんです。
努力に成功すればいいんです。
結果は関係ありません。
過程が伝えるべきことの全てだからです。
結果は導かれるのものであって、
それ以上でもそれ以下でもありません。(どんぐり倶楽部「思考の臨界期」pp.384-385)


10代の後半からずっと考え、試行し、挫折してきました。どう生きるべきなのか、自分に価値・存在意義(生きている意味)はあるのか、という問いの答えを求めて。初めてこの文章を読んだとき、「人生を味わう」とはどういう心境か実感できませんでしたし、ましてや、どうすれば味わえるか分かりませんでした。その後、存在意義について自分なりに納得できたときから、人生を味わうとはどういうことかも、少しずつ分かってきつつあるような気がします。私の場合は、「自分を許す」ことに鍵がありました。30年近い長旅でした。

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1995年早生まれの男の子(ミント)、1997年生まれの女の子(パセリ)の母親です。主として、目からウロコが落ちるステキな子育て・学力養成の理論&実践方法を提供しているどんぐり倶楽部について書いています。

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