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読解力(2)

私達には見えない物を見る力(信じる力)が備わっています。
最も偉大な力の一つです。
私達は、その力を守り育てることで
人生を楽しむことが出来るようになります。
子供は空想に生きることが出来ます。
既にこの力を体得しているということです。
この力を守り抜くことが大事なのです。
現実を取り入れる術は簡単にできます。
ですから心配はいりません。
注意すべきは空想する力を失うことです。
イメージの枯渇は子供に致命傷を与えます。
学力にも致命傷を与えます。
創造力にも表現力にもあらゆる面で致命傷を与えます。(どんぐり倶楽部「思考の臨界期」pp.394-395)


読解力は入試突破のためだけにあるのではありません。生きていくための養分にならなければなりません。文字で書いてある部分だけではなく、書いてある部分から立ちのぼる、書いていない部分も含めてイメージ化・想像できなければ読解にはなりません。緻密に理論が構築された論文であっても、例えば理論物理学者なら、ワクワクしながら量子の振るまいとか、宇宙の様子をイメージするのだろうと思います。

ここで「イメージ」と言っているのは鮮明な画像とは限りません。ですから抽象的な言葉・文章でも写真のような画像になるという意味ではなく、「頭に浮かぶ内容の全体像」ということです。考えるとき、ひらめいたとき、思考・ひらめきの内容の文章が、頭の中に流れるわけではありません。それに先立つものがあり、表現するときに言葉になります。その「先立つもの」をイメージと呼んでいます。(これは「思考の臨界期」における「イメージ」という言葉の、私個人のとらえ方です。)けれども、具象的なことを考えたり、思い浮かべたりする場合ではイメージを文字通り画像にして紙に描けます。そして、これが、どんぐり倶楽部の考えるという行為の練習・習得方法です。

どんぐり倶楽部では読解力を育てる方法として「絵コンテ読解」という、物語から思い浮かんだ場面を、読み進めながら順々に絵に描く手法を提案しています。(「絵コンテ読解」の詳細は「どんぐり倶楽部」HPをご覧ください。)同じ文章でも思い浮かぶ場面のディテイルは人によって異なります。ということは、イメージはオリジナルだということです。ですから「絵コンテ読解」という手法は、きっと、文章の雰囲気・行間といった「見えない物を見る力を守り育てる」優れた方法だと思います。「きっと」と書くのは、私のどんぐり倶楽部理論の理解が遅く、我が子の教育に取り入れるのには間に合わなかったからです。(評論では絵ではなく「図式化」を提案していますが、小学校卒業以後が主な対象です。)それに対し、小学校や入試では、オリジナルではなく唯一の(=出題者が想定する)正解を導き出すことが求められます。

さて、クリスマスが終わったばかりなので、ここでは聖書の一節を例に、私のイメージ化の例を書いてみます。(聖書を題材に使用して不快感を覚える方がいらしたらお許しください。)

(人口調査のため)人々はみな登録するために、それぞれ自分の町に帰って行った。ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上っていった。それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、<登録>するためであった。<ところが>、彼らが<ベツレヘム>に滞在している間に、マリヤが月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、<飼い葉桶(かいばおけ)の」中に寝かせた。>客間には彼らのいる余地がなかったからである。(聖書 ルカによる福音書 第2章)

< >の部分は私の記入です。この部分について、テストでありそうな問題は次のようなものでしょう。
1.<登録> 空所補充
2.<ところが> 空所に適切な接続詞を選択肢から選ぶ
3.<ベツレヘム> 適切な地名を記入
4.<飼い葉桶~寝かせた> 理由を説明

このようなことがわかることも、文章理解に必要ではあります。けれども、読解力養成が目的ならば、それだけではあまりにも物足りない。この細々(こまごま)した設問に答えられるより、文字の行列からイメージを思い浮かべ、それを感じ・味わうことの方に、重点を置くべきだと思います。細かいテクニックより、文章全体を理解し、感じ、味わう方が、人生における読書の意義という観点からも、はるかに意味があります。

私はキリスト教徒ではありませんが、カトリック系幼稚園に通い、母がプロテスタント系の学校の出身であり、子供たちがプロテスタント系幼稚園に通園したので、幼い頃から聖書が身近にあり、そのお話を聞く機会がありました。

聖書には羊がよく出てきます。イエスは馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされました。子供の頃、私は羊とか馬小屋に、とてもロマンチックなイメージを持っていました。幼稚園時代のイエス誕生の劇では、真っ白な長い天使の衣装を着ましたし、クリスマスには、町中が美しいイルミネーションやオーナメントで飾られますから。

でも、大人になって旅先で羊や山羊の群れを見たり、動物の飼育小屋を見る機会があってロマンティックなイメージは大きく変わりました。

今月の初めに、我が家に食材を宅配してくれる会社と契約する農家の人参の収穫に、パセリと参加しました。農家・宅配業者・消費者が一緒になって人参を引っこ抜き、近所にある牛舎の近くの広場で、売り物になる物とならない物に分け、600g強のパックになるように詰めます。牛舎の近くは、お世辞にもいい香りとは言えません。(しばらくすると慣れてしまいますが)

馬と牛の違いはありますが、こんな所でマリヤは出産し、一緒にいる動物のえさ入れ容器に、生まれたばかりの赤ちゃんを寝かせたのです。誰が生まれたばかりの我が子を、家畜のえさ入れに寝かしたいと思うでしょうか。でも、宿泊する客間すら無いヨセフとマリヤは、そうせざるを得なかったのです。イエスは天蓋付きのふわふわベッドに寝かされるような恵まれた境遇ではなかった、神の子であるのに。いいえ、このことこそが、聖書のこの記述の革新的・画期的な点なのだと思います。生まれも育ちも、神の目から見れば関係ないという強いメッセージが感じられます。

これが、素っ気ないほど淡々と語られるイエス生誕の聖書の一節に抱いたイメージの変化です。家畜舎に行く体験によって、それは単なるロマンチックなお話から、人間は出自に関係なく平等であるという倫理を突きつけてくる力強い文章に変わりました。同じ人間が同じ文章を読んでも、読むときが違えば、これほどイメージは変わるのです。百人いれば百通りのイメージがあって当然です。文章を読んだ時点の自分自身が持っている感受性で、オリジナルなイメージにする力が読解力なのではないでしょうか。

せめて小学生のうちは、大人の目から見ればトンチンカンであっても、オリジナルなイメージを描く自由、好きなように感じる自由を保証してもらいたいです。自分独自のではなく、常識的なイメージとは何かが分かるスキルをつけるのは、そのあとでいいのではないでしょうか。

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1995年早生まれの男の子(ミント)、1997年生まれの女の子(パセリ)の母親です。主として、目からウロコが落ちるステキな子育て・学力養成の理論&実践方法を提供しているどんぐり倶楽部について書いています。

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