スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「思考の臨界期」は分からない?

先頃、どんぐり倶楽部とは関係ない、ごく一般向けの読み物に、小脳と考えるという行為の関係が書いてありました。それによれば、大脳で意識して一所懸命考えたことは、小脳に思考回路として貯められ、無意識に考えるようになる。無意識で考えていたのだから、何かを思いついた本人は突然「ひらめいた!」と感じる。思考力養成とは、小脳に沢山の思考回路をためることだ、という趣旨でした。

この箇所について、
夫「あそこはまゆつばだな」
私「でも、理研(理化学研究所)もそう言ってるよ。」
夫「へえ。けど、反射のことだろ。」

私はこの時、どんぐり倶楽部の話はしませんでしたが、言うまでもなく、何年も前からどんぐり倶楽部の理論で言われていることです。

小脳と大脳の関係が分かるとヒラメキも分かります。
運動の練習では、意識しながら(考えながらor確認しながら)手足を動かしていますが、
慣れてくる(納得回路が作られて小脳にこの回路が写し取られる)と
意識しなくても運動ができるようになります。
(中略)
つまり、小脳の動きは意識されずに行われることに属するのです。
大脳で作られた思考回路を小脳が写し取って無意識のうちに
考えを継続していてくれるのです。(どんぐり倶楽部「思考の臨界期」pp.406-407)


夫は「思考の臨界期」も読んだことがあります。その時の感想は、
「新しいことを言う人は、何でも知ってるように書く」
という否定的なものでした。「あそこはいいけど、ここは疑問だ」という冷静な分析的姿勢ではなく、全否定です。

今でもどんぐり倶楽部の理論には否定的なようで、私が1月27日に「どんぐり倶楽部でなくてもいい」という記事を書いて、それに拍手がたくさん入ったので嬉しそうでした。特に、この記事の最後の、「どんぐり理論とて、誤りがある可能性がゼロとは言えません。研究が進み、訂正すべき点も出てくるかも知れません。」という部分が気に入ったようでした。

否定的な感想を持ったにせよ、「思考の臨界期」で小脳と考える行為について読み、同じ事を、別の物で読んでもやっぱり読み取れない。小脳で無意識に考えることは深く考えることだということなのに、「反射」と取り違えてしまうのです。

がっかりしました。なぜなら、夫はいわゆる難関大学の大学院を出た理系の研究者だからです。専門は脳科学とは全く違いますが、それでも理系的内容の文章には慣れているはずです。そういう人であっても、どんぐり倶楽部の理論は理解不可能なのだという事実に愕然(がくぜん)としました。理系研究者でも読み取れないのなら、そうでない人に分からなくても当然かと思い、このブログでどんぐり倶楽部の理論について書くことの意味があるのだろうかと、気分がふさいでしまいました。

私は大学の文系の学部を卒業しています。私が所属した学部では卒論があり、卒論に試問というものがありました。試問では、論文について先生に色々な質問をされたり、論文の欠点について追求されたりするのです。私の専攻では、学生1人に対して2人の先生が担当されていました。厳しいことで有名で、3年生の時は、泣きはらした顔で試問から帰ってくる先輩の4年生の姿を見て、「明日は我が身」と思い、ぞっとしました。

私の受けた試問も当然厳しく、赤ペンでギッシリと書き込みをした私の卒論のコピーを見ながら、2人の先生が「どうして、ここはこう言えるのですか?」「論文というものは1行1行に裏付けがないといけません」などと代わる代わる追求。その厳しい試問で、たったひとつ先生がほめてくれたことがありました。それは、

「あなたの論文のいいところは、分からないことは分からないと書いているところですね。」

この一言は、その後の物事に対する姿勢にかなり影響しました。つまり、

よく知らないこと・分かっていないことを、よく知っている・分かっているかのように言ってはいけない。

1月27日の記事の末尾もこの姿勢を反映した文です。「思考の臨界期」が扱う範囲は広く、内容の全てを自分で確かめられたわけではありません。多くは現在や子どもの頃の体験で確かめられ、納得できることですが、例えば、無意識な思考が深く考えることにつながることは体験的に分かっても、それをやっているのが小脳だとは自分では確かめられません。現在の脳科学では小脳だと結論づけていても、研究が進んで別の部位だと判明するかもしれない。そういう意味で、「訂正すべき点も出てくるかも知れません」なのです。

研究論文を日頃から読み慣れている人が、どうして分からないのだろう、と考えました。

現時点では、結局、ふたつの感受性・感度の問題だろうと思っています。

どんぐり倶楽部で「子どもを感じる」ことが大事だというコメントが所々あります。子どもがある体験をしたり、言葉を言われたとき、親である自分が「子どもがどう感じているか、どう思うか、どう受けとめるか」ということが分かる・感じられる、子どもの感受性に寄り添えることを指しているのだと思います。平たく言えば、子どもの目線になれるということです。

もう一つの感受性・感度は、子どもに対してではなく、自分に対するものです。上の「思考の臨界期」の引用の部分を読んで、私はすぐ自分がやっている、どの行為のことか思い当たりました。(1月3日「深く考える」にも書きましたが。)そういう自分の頭や心の働きに気付ける・敏感であることが、どんぐり倶楽部の理論を理解できるかどうかの分かれ目であるように思います。

そして、理論的なことは高等教育で身につけることはできますが、感受性・感度は学歴とは関係ありません。高い方がいいわけでもなく、低い方がいいわけでもありません。日常をどう過ごすかにかかっているのでしょう。感度が鈍るとは、親がいつも怒鳴っていれば、子どもも怒鳴っているとは感じずに怒鳴ってしまうようなことです。

読書好きでなければ「思考の臨界期」はさっぱり分からないと言う人も多いと思いますが、分からないと言う人の中には、子どもの感じ方が手に取るように分かって、読まなくても内容のかなりの部分が既に分かっている人も沢山いらっしゃると思います。

にほんブログ村 教育ブログ 小学校教育へ
にほんブログ村

受験、あるいは「努力に成功すること」

ガンバルドンは常に「努力に成功した人」だった。そこに価値があるのである。人間としての価値はココで決まるのだ。(どんぐり倶楽部 漢字読本「タイムトリップ」)

最近、親戚や直接的・間接的知人が大学受験をするのを見聞きして、自分が受験した20年以上前とは様変わりしたなとつくづく思います。20年前でも推薦入試は存在しましたが、あまり一般的ではなく、ほとんどの受験生が狙う大学の1年に1回だけのペーパーテスト一発勝負にかけていたと思います。現在のセンター試験にあたる共通1次試験も既にありましたが、同じ大学を受験する人の共通1次試験の点数はあまり変わらず、大学独自の試験が勝負どころでした。

自分が受験した頃と大きく変わったと思うのは、ひとつの大学に入るための受験機会が多様になったことです。推薦、AO入試、センター試験の得点による合否決定などなど、大学が作成するペーパーテスト以外の機会が実にたくさんあります。大学独自のペーパーテストを受ける機会も数回あります。

少子化の影響でしょうか。つまり、入学者を確保すること以外に、受験機会を増やすことで受験料が大学に入るという経営判断ではないかという気がします。

それはさておき、高校生の側からすると、難関大学は別として、以前から定評のある大学に入りやすくなっているのです。大学独自のペーパーテストが行われる本格的な受験シーズンが始まる前に合格者が続々と出ています。「ぜいたくを言わなければどこかに入るだろう」という空気が流れています。そこには、私が経験した、「失敗したらどうしよう」という心臓が飛び出るような緊迫感はありません。

このような実情を身近に見るにつれ、どんぐり倶楽部で高校受験を、努力と工夫を重ねる機会としてとらえている意味の重さがよく分かってきました。また、どんぐり倶楽部では中高一貫校への進学を勧めません。

【中高一貫教育は失敗します】
●「戦い方を教える絶好の機会を失うという意味において」中高一貫教育は失敗します。本当の教育は実態を伴った小中一貫教育にあるからです。
●中高一貫では大事な高校受験が効果的に働かないので止めた方がいいということです。
※利点はありますが欠点が多い場合は、教育の場合はそれだけでダメなんです。
●高校受験は自分の責任で進路を決め、自分の責任でテストを受ける大事で最も効果的な年齢にある試練なんです。
 この時期に自分と立ち向かう機会を奪うことは教育の仕上げを先延ばしして時機を逸する事になりかねないのです。
 15才はそういう時期なんです。あやふやな状態でこの時期を過ぎると一生あやふやな人間になりかねないのです。(どんぐり倶楽部HP「中高一貫教育の危険性」)


中高一貫校に通うと高校受験はありません。中高一貫校の生徒の多くは大学に進学しますが、大学の付属校なら大学受験もありませんし、付属校でなくても大学受験をする時に、一発勝負のペーパーテスト以外のルートで入れば、懸命に努力と工夫をして合格するわけではありません。すると結局、「勝負する」という経験が無いままに社会に出てしまいます。また、一発勝負で入るにしても、私立の学校は少子化で存亡の危機にさらされているので、かなり面倒見が良く、先生の指示通りにやっていれば、その学校がメインターゲットにしている学校に入れる、つまり、自分で入るための対策を考えなくても入ってしまう状況になります。

小学生の時、中学受験をした経験があるじゃないかと反論されるかもしれませんが、小学生では幼すぎます。中学受験をするかどうかは親が決めている場合がほとんどだと思います。受験塾の多くは小3冬から受験のためのカリキュラムを開始しますが、数年先の展望を描くには小3では無理なので、「親に塾に行かされて」受験勉強を始める子どもがほとんどでしょう。そして、受験校の過去問を調べて対策を練るのは本人ではありません。

それに対し中学生なら、目標を定め、それをクリアするためには何が必要かを分析し、実行することが可能です。そして、目標は高い方がいい。学校を選ばなければ、誰でも高校に行けるのが実情なので、初めから目標を低くしてしまうと、努力と工夫を放棄してしまうので。

私はこの点を勘違いしていました。どんぐり倶楽部で「公立ならトップ校を目指すようにする」と言っているのは、トップ校に入ることに価値があるからだと理由もなく思って、腑に落ちない感じがしていました。でも、上に書いた大学受験事情を実際に見るにつれ、トップを目指すのは、そこに目標を設定することによって、本人の中にある覚悟・努力・工夫の可能性を引き出せるからなのだと思います。肝心なのは、この覚悟・努力・工夫をするプロセスで、結果である「最難関の高校に入れたか」ではないと気付き、すっきりしました。

ぎりぎりまでやってみて、無理だと分かれば直前に受験校を変えればいいまでです。公立高校は試験が同じなので、受験校によって対策を変えなくていいからです。それに対して、進学したい私立高校があれば、その学校に合わせて作戦を練ることになります。どちらにしても、受験というのは、目標に到達するためのハードルがはっきりしているという点で、人生勉強になりそうです。「明るい人になりましょう」が目標では、漠然としていてハードルを乗り越える練習にはなりません。

冒頭に引用したように、「努力に成功する」ことに意味があります。

社会に出ると、努力と工夫で戦う場は、人それぞれになります。自分の周囲にいる人が一斉に同じ資格試験を目指すわけではありません。各人がそれぞれの必要を満たしたり、希望をかなえるために、その前に立ちはだかる障害を乗り越えなければなりません。~のためには~することが必要だから~するというふうに。それをしなくても生きていけるかもしれません。でも、いつも障害を避けて通っていると、人生が不完全燃焼している感覚をいだいたままになってしまうでしょう。「一生あやふやな人間になりかねない」とは、そういうことだと思います。

ミントは中高一貫校に通っています。夫も私も塾に行かそうとか、中学受験をさせようとは思っていなかったので、小3の冬から塾で受験の準備をする一般的なケースとは、小学校時代の過ごし方がかなり違っていると思います。でも、受験したくなったのは本人でも、受験対策を考えたのは本人ではないし、高校受験もありません。この事実をよく心に留めて、彼の成長を見守らなくてはならないと思っています。

にほんブログ村 教育ブログ 小学校教育へ
にほんブログ村

どんぐり倶楽部でなくてもいい

●常に忘れてはいけないことがあります。「どんぐり倶楽部」ではないものを選ぶ...という選択肢もあるということです。
●する事と同じようにしない事は同等に選択なのです。ですから「しない」という選択肢も常に持っていなくてはいけません。テキストのために子供があるのではなく子供のためにテキストがあるんです。子供のために「しない」という選択もありえるんです。
※ただし、「どんぐり倶楽部」の理論は知っておいて下さい。その上で「しない」場合は大丈夫です。大事なのは理論なんです。理論が分かっていればどんなものでもアレンジできます。理論を知っていればどんなものでも工夫が出来ます。ですから、大丈夫です。 (どんぐり倶楽部 BBS 2007年02月24日 14時32分07秒)


どんぐり倶楽部に関わっていて、何より辛い思いをするのは、どんぐり倶楽部を自分自身で考えもせず信じている、どんぐり倶楽部以外のものが見えなくなっている、洗脳されていると思われ、言われることです。

けれども、どんぐり倶楽部の手法でやっていることが洗脳されたことになるのでしょうか。小学校で算数を教える手法も、色々ある手法のひとつであり、公的教育でやっていることだからという理由で、調べもせず、考えもせず、それが正しいと鵜呑みにすることは、一種の洗脳された状態ではないのでしょうか。

どんぐり倶楽部の手法と理論が正しいか・正しくないかは、多くの場合、自分自身が物事をどうやって考えたり感じたりしているかを静かに観察し、自分の子どもを冷静に見ることで、素人でも確かめられることです。それをやってみると、どんぐり理論というのは、奇抜でも新奇でもなく、人間という生き物の自然な発達、自然の摂理に無理なく沿うことだとわかります。

私自身、他の手法に流れそうになっていたこともありました。子育て本・学習法に関する本も沢山読みました。でも、落ち着いて観察し、考えれば、自分を含めた生身(なまみ)の人間から知った事と、どんぐり倶楽部の理論以上に一致し納得できるものは見つけられなかったのです。また、子どもに関する優れた本でも、子どもの全体(知性・感性、学校・日常など)から部分を語るのではなく、部分だけを語っているので、語られている部分以外の事になると「かゆいところに手が届かない」状態になり、別の子育て本を読みあさらなければならなくなるのです。

たとえば、成績はいいのに情緒は不安定な子どもがいるとします。成績向上のための情報は色々あります。何歳からどういう習い事をすればいい、どこの塾がいい、どの問題集がいいなど。でも、そういう情報からは、情緒のことはあまりわかりません。そこで、情緒安定のための情報収集を別にやらなければならなくなります。

でも、どんぐり理論では、まず、成績とは何か、学力とは何かから問います。(成績と学力は違います)そして、学力と情緒をバラバラにしません。人間は部分の寄せ集めではなく、部分が全体に、全体が部分に影響するからです。従って、学力も情緒も理論の対象になっています。(このことについては、11月25日の記事にも書きました)

どんぐり理論については、まだ日々発見の段階なのですが、それでも、理論を理解すればするほど、学習だけではなく、子どもと接するあらゆる場面で、迷うことが少なくなり、気分的にも楽(らく)になったので、このブログを書いています。自分自身が情報洪水で溺れかけたので、右往左往し、追い詰められたお母さんたちの気持ちが分かるからです。

冒頭の引用文にあるように、どんぐり倶楽部はどんぐり倶楽部の教材でなければならないとは言っていません。どんぐり倶楽部の教材を使わない選択肢も親は持つべきだとさえ言っています。それを具体的に示したかったので、1月5日には、どんぐり文章題ではなく、「道草学習のすすめ」のこだま先生の問題も記事にさせていただきました。どんぐり倶楽部は教材を各種メディアで大量販売して利益をあげようと躍起になっているわけでもありません。どんぐり理論に沿った教材が無かったので、作らざるを得なかったまでです。子どもが問題を「選ぶ」という経験をするために、問題数を実際に取り組む2倍は用意しようとすると、各学年100題必要になったわけですが、これだけのことをしてくださる教育者が現れないので、どんぐり倶楽部の理論に沿って子どもを育てようとすると、どんぐり倶楽部の教材を使うことになってしまうまでです。

どんぐり文章題を各地でやる子供が増えれば、絵図の遠隔展覧会も出来るし、離れた場所に住む子ども達が共通の話題が持てて、楽しくしゃべることも出来るかも知れない。それは、素敵なことでしょう。でも、他にも楽しい文章題を沢山作って公開してくださる方がいらっしゃれば、「君は何やった?」「僕はどんぐり」「ふ~ん、僕は△△だよ。こっちも面白いよ」となるかもしれません。それはもっと素敵なことです。私は元来、画一的なことは嫌いです。ファシズムを連想してしまいます。

どんぐり理論を知っていれば、おもちゃの選び方、インテリアの置き方、言葉のかけ方などなど、日常生活の色々な場面ですべきこと、すべきでないこと、少々手を抜いてもいいことが、自分で判断できるようになってきます。(私が実際出来ているかは別問題ですが) ですから、大事なのは、教材の方ではなく、理論の方です。子どもの状態はそれぞれ違うので、場合によっては、「今はどんぐりの教材でも使うべき時ではない」とか、「もう、教材は卒業していい」とか、「(塾や学校の)どんぐり以外の教材をこう使えばいい」ということもあると思います。

人間の自然な発達と、そのために整えるべき環境を知っていれば、各家庭が置かれた環境の中でどうすればいいか、何が出来るかという具体的方法を各人が工夫したり、判断したりできます。逆は出来ません。人間の数だけある環境に応じて、一つ一つ個別の処方箋を書くのは、どう考えても無理です。

今の時点で、私にしっくり来るのはどんぐり理論ですが、どんぐり理論とて、誤りがある可能性がゼロとは言えません。研究が進み、訂正すべき点も出てくるかも知れません。その時は、謙虚に受け止められるように、「どんぐり教徒」になってしまわないように心しておきたいと思います。

にほんブログ村 教育ブログ 小学校教育へ
にほんブログ村

達成感という甘い罠(わな)

見当外れの無意味な(価値のない)達成感(快感)を味わった幼児は、
無意味な行動でも達成感(快感)を得るために反復行動をとります。
達成感そのものが目標になってしまうと
目標の意味や価値を考える必要を感じなくなり
不毛な行動をとっても平気になります。(どんぐり倶楽部「思考の臨界期」p.466)


大人の仕事(ビジネス)の世界では「やりとげた」という達成感がモチベーション(動機・誘因)として語られます。ある課題があって、それをやり遂げると達成感が得られ、それが次の課題に立ち向かうモチベーションとなり、それをクリアするとまた達成感が得られ・・・という好循環を生むというふうに。

達成感自体に善悪はありません。生理的反応だろうと思います。脳科学では、達成感を感をある種の脳内物質の分泌によって説明されるのかもしれません。

でも、生理的反応だからこそ、つまり、やり遂げた事の内容に関係なく感じる快感であるからこそ、やり遂げる内容が問われなければなりません。内容が悪ければ、好循環ではなく、悪循環になるからです。

先日の「漢字学習」の記事で、漢字ノートを何でもいいから漢字で埋めてくる宿題のことを書きました。ここからは、話を簡単にするための極端なフィクションですが、仮に「明日までに『達』という字でノート3ページを埋めてくること」という宿題が出たとします。子ども達は恐らく、「へん」と「つくり」に分けて、左半分の「しんにょう」だけをズラーッと書き、右半分をズラーッと書くでしょう。それでも、3ページ書き終わった瞬間は「達成感」を感じるだろうと思います。(そのあとで、こんな宿題はこりごりだと思うでしょうが)

学力向上という点から見れば、明らかに無意味な宿題です。これが大人に課せられたことなら、頻度にもよりますが、人格破壊に直結しにくいでしょう。でも、人格形成期の子どもにとってはどうでしょうか。私は子どもの発達の専門家ではないし、多くの子どもの成長を見る職業に就いているわけでもないので、母親としての感覚からしか言えませんが、危険を感じます。幼いほど、社会ではなく、自然の摂理に従わないと、生き物としていびつに成長する気がするのです。

だから、達成感を感じる内容が大事だと思うのです。3ページではなく3行なら、「書き終わったときの、終わった~っていう気分(達成感という快感)がいいんだよね」と言う子もいるかも知れません。そういう子なら、達成感がモチベーションとなって、同じ漢字で3行埋めるという行為を嬉々としてやり続けるという悪循環も起こりうるのです。

では、単純作業ではなく、受験問題のような頭をひねる問題を解けた達成感ならいいのでしょうか。確かに、難問を自力で解けたときの達成感は大きいに違いありません。もちろん、達成感を感じることがいけないのではありません。感じるのが自然です。でも、達成感を「目標」にするのはどうかと思います。これには反対意見が多いと思います。私自身、以前は、この種の達成感を「目標」(エサ)にすることに疑問は感じていませんでした。

難関中学受験を指導する塾では、子ども達が難問を次から次へと解けるようにすることが目標です。どんどん解ければ塾での順位も模試の偏差値も上がり、子どもによっては、難問にチャレンジして試行錯誤することではなく、サクサク解けることの方に強く惹かれるでしょう。そして、この優秀児がそのまま大人になり、東証一部上場企業の社員になると、仕事の課題をサクサク処理できることが幸福の源、自分らしさ・アイデンティティになってしまうかもしれません。

「思考の臨界期」はときに哲学的でもあります。冒頭の引用文の後半は達成感そのものを目標に設定することの愚かさが書かれています。これは、達成感は目標としなくても感じるのだから、それ自体を目標(悪く言えばエサ)として教育手法に取り入れる事を戒めているのだと思いますが、このことは、人生全般に言えると思います。

仕事の出来る人が、非常に苦労してある成果を出す。それによって他人からも評価されるだろうし、たとえ誰も評価してくれなくても、自分で成果の重要性が分かっていれば、達成感・満足感が得られるでしょう。難しい人間関係、過酷な労働などの条件とたたかいながら成果をあげるためには、そうした達成感を心の支えの一つにするのもやむを得ないでしょう。でも、達成感は長くは続きません。だから、達成感で心を支えるなら、一つの成果をあげたら、次の課題が、それが終われば、また次の課題が、と果てしなく課題が必要です。

しかし、ごく一般的な人生では、成果を死ぬまで最盛期のように出し続けることは出来ません。やがて、精神的にも、体力的にも衰えます。病気など思わぬ事で断念せざるを得なくなる人もいるでしょう。そうなると、達成感はもうありません。過去の成果にしがみついてプライドを保つことができるだけです。それは、あたかも、蓄財の成果である預金残高の数字を見て、自分の人生を無理矢理意味づけするような悲しい行為に思えます。

正確で健全な自我を発達させたのち、つぎはどうするのか。自我の目標を達成し、車、家、自己評価を手に入れ、仕事で認められ、物を買い集めたのち・・・こういったことをすべて達成したのち、その先はどうなるのか・・・歴史がもはや魂に意味を与えることができなくなったとき、外界の物質的追求に魅力がなくなったとき、自分を待ちかまえているのが死のみであることが明らかになったとき、どうすればいいのか。
人生に自我的な意味を見出すことは、人生において何かをすることであり、ある時点までそれは適切なことである。だが、自我を超えたところには、そういった種類の意味を超えたものがある。することが減り、在ることが増えるような意味。(ケン・ウィルバー「無境界」平河出版社)


達成感は目標にも、長続きする幸福の源にもなりません。だから、仕事なりプライベートなり、生活のどこかで、生きる過程を、生活そのものを、いま生きていること自体を楽しむことが必要になります。

味わうことの楽しさを小さいときに経験する
これがないと「味わうことの楽しさ」を知らずに大きくなってしまい、
楽しい人生であっても(人生を味わうチャンスがあっても)
味わうことができなくなってしまいます。
味わう術を知らないとは実に悲しいことです。
(中略)
勝敗や出来る出来ないは関係ありません。
味わうことに成功すればいいんです。
努力に成功すればいいんです。
結果は関係ありません。
過程が伝えるべきことの全てだからです。
結果は導かれるのものであって、
それ以上でもそれ以下でもありません。(どんぐり倶楽部「思考の臨界期」pp.384-385)


10代の後半からずっと考え、試行し、挫折してきました。どう生きるべきなのか、自分に価値・存在意義(生きている意味)はあるのか、という問いの答えを求めて。初めてこの文章を読んだとき、「人生を味わう」とはどういう心境か実感できませんでしたし、ましてや、どうすれば味わえるか分かりませんでした。その後、存在意義について自分なりに納得できたときから、人生を味わうとはどういうことかも、少しずつ分かってきつつあるような気がします。私の場合は、「自分を許す」ことに鍵がありました。30年近い長旅でした。

にほんブログ村 教育ブログ 小学校教育へ
にほんブログ村

漢字学習

最小限で最大限の効果が出るように「いかにさせないか」が力量なんです。(どんぐり倶楽部 BBS過去ログ2005.7.5)

小学校の国語では、かなりの時間と労力が漢字に注がれます。先生は日々、どうすれば子どもが漢字を覚えるだろうかと頭を悩ませておられるだろうし、我が子達を見る限り、子どもの方は、どうすれば漢字の宿題をさっさと片付けられるだろうかと頭を悩ませています。

ミントとパセリの公立小学校では、先生によって、漢字の宿題はかなり違っていました。漢字のドリルは2つあるのですが、片方をメインにして、もう片方は短文の部分だけを使用する先生。両方ともきっちりやる先生。子どもが作った短文の内容に関して、こまめに気のきいたコメントを入れてくださる先生。ドリル以外に漢字ノートというのを作らせ、時々「漢字ノート、××ページを埋めてくる、どんな漢字でもよろしい」という宿題を出す先生。この宿題では、ミントの友達は、全て「一(いち)」と書いて、別の漢字に書き直すように言われていました。

ふたりともそうなのですが、特にミントは漢字の宿題は大嫌いで、漢字を使う国に生まれてきたことを嘆いていました。でも、現実は受け入れなければなりませんし、ひらがな・カタカナ・漢字を併用することも日本文化の一部、継承されるべきでしょう。それに、漢字が無いと不便です。新聞が全てひらがなとカタカナで表記されると読みにくいに違いありません。もしそうなれば、英語のように、単語と単語の間をあけなければ、読めたものではありません。

どんぐり倶楽部ではイメージフィックス法という、漢字をよく見て形(イメージ)を取り込むという覚え方を提案しています。残念ながら、私のどんぐり倶楽部の手法・理論の理解が遅く、この方法は、ミントは全くやっていないし、パセリもほとんどやってきませんでした。そのせいかどうか分かりませんが、ふたりとも漢字の「読み」はともかく、「書き」はいまひとつです。でも、今では何故、イメージ・フィックス法という手法を提案しているのかが分かります。文字も英単語もイメージで覚えているからです。人間の頭はそうなっているのだと思います。少なくとも、私の頭はそうなっています。だからこそ、イメージが似ている「鳥(とり)」と「烏(からす)」を見間違えます。英単語でも、appleと見た瞬間に「アップル」だと分かります。「エイ、ピー、ピー、エル、イー」とつづりを読んでから「アップル」だと分かるわけではありません。

漢字学習にイメージフィックス法を使うことの是非については、かなり異論があるのではないかと推察しています。漢字には部首があり、それがある程度、字の意味を表すのだから、漢字の成り立ちを意識させた方が意味と関連づけて記憶ができ、かつ漢字という日本文化の一部も味わえると。私もそう思います。でも、「漢字を覚える」という点に絞ると、成り立ちと関連づけるという方法は「万能ではない」のが欠点です。

例として「郵」という字を考えてみます。部首は右半分の「おおざと」です。辞典で調べると、「おおざと」の意味は「領地とひれ伏している人の形で、村のこと」だそうです。ですから、「おおざと」が付く字は、村に関係があるということになります。でも、なぜ、村が「郵」と関係あるのでしょうか。更に調べると、左側は、「花や穂が垂れ下がった形で、人がいない国境のこと」とあります。そこから、「遠い国境にある、運ばれる手紙の中継所」という意味が出てくるのだそうです。

数多くある漢字を、いちいちこのようにして覚えることは出来ません。だからといって、「手が覚えるまで」何十回も書くというのも負担が大きすぎます。だとすれば、頭の中に格納する形でインプットするというのが、どの子どもにとっても万能かつ負担が小さいという結論になります。部首を意識して、漢字の成り立ちを楽しむのはいいことだと思います。よく使われる部首、例えば「さんずい」が水に関係があるとか、「てへん」が手に関係あるといったことくらいは知っていた方がいいと思います。でも、それは「てへん」や「さんずい」が付く字の全体、あるいは全ての漢字を思い出す手がかりにはなりません。

学校や塾の授業で、時々「この漢字の成り立ちはこうなんだよ、面白いね」と触れるのはいいと思います。漢字の成り立ちという「面白い世界」が存在することを知らせるという意味で。そうすれば、「面白い!」と思って興味の範囲を広げる子もいて、なかには漢字辞典が愛読書になる子も出るかも知れません。でも、全ての子どもが、漢字の記憶に役立つほど、成り立ちに興味を示すとは思えません。漢字の成り立ちに強い興味を持っていても、「花や穂が垂れ下がった形」だという情報から「郵」の左側を思い出せる子どもは少ないと思います。

どんぐり倶楽部の教材の特徴のひとつは、必要最低限に抑えてあることです。子どもによって有効だったりなかったりする方法、ある漢字には通用するけれども別の漢字には通用しない方法は提供しないということです。この方針にのっとると、一つの漢字を連続30回書くというような苦行から、漢字に対する興味の度合いに関係なく、どんな子どもも守れる手法はイメージで覚えるという方法になるという結論に至ったのだろうと思います。思い出せるとは、その漢字のイメージが思い出せるということだからです。「郵」は「国境にある中継所」を意味するから、右側が「村を表すおおざと」で、左側が「国境を表す花や穂が垂れ下がった形」なのだ、だからこういう形だという手順を踏んで思い出すわけではありません。結局はイメージとして頭に保存されるけれども、イメージを思い出すのに、記憶があやふやなうちは字の成り立ちが有効な場合もあるというまでです。

成り立ちを学ぶことが悪いのではなく、覚えるための万能手段とみなすことが誤りだということです。義務教育で覚えなければならない漢字は決まっています。学校によって違うわけではありません。覚えることは漢字学習の最低限の目標で、成り立ちを楽しむのはオプションなので、学校によって、先生によって、違う字を取り上げていいと思います。また、漢字を覚えることに注ぐ時間と労力を減らせば、成り立ちに触れたりして、漢字を楽しむ余裕も増えるはずです。

イメージフィックス法は、字の形を覚えることに特化しています。でも、漢字は、ひらがな・カタカナのような表音文字ではなく、表意文字なので、意味・使われ方も分からなければなりません。そのために、どんぐり倶楽部には、ひとつの短い物語に学年配当漢字が全て入った、学年別の漢字読本もありますが、こちらは我が家でも少し利用しました。「少し」というのは、ほとんど読んだだけ、ということです。

最近、パセリは漢字読本を使って、小学校の漢字総点検をしています。パセリの様子を見て分かったことがあります。漢字読本での漢字学習は、面白くてやめられないということです。低・中学年向け漢字読本を読んだのは何年も前なので、ストーリーをはっきり覚えておらず、新鮮で面白いのです。一般的な教材では、漢字を使った短文ですが、漢字読本はストーリーを追う楽しみがあります。「面白い」とはストーリーを楽しんでいること、つまり読解もしているということです。私はケラケラ笑いながら出来る漢字学習方法を他に知りません。

漢字読本のひとつ「河童の国のホスピタル」の一部はこんな具合です。

(河童の種族対抗)試合は往路と復路に分かれていて二日かけて行われます。スタート前には全ての選手が起立して、歯医者から歯の点検を受けます。歯に異常があると参加できません。このスタート点検に合格すると小さなコップにお酒を受け取って一口飲んでからスタートラインに並ぶのが習慣となっています。

一般的な教材の短文なら、こんな感じでしょうか。

・学校まで往復する。
・7時に起床する。
・歯医者に行く。

さらに、どんぐり文章題にも、漢字学習への配慮がされています。2M34の記事(1月6日)でも書きましたが、問題文には、学年に関係なく、かなり難しい漢字・語句が使われ、子どもは自然に、それに接するようにできています。文章題はノーヒントが鉄則ですが、知らない漢字・語句を教えることは、ヒントには入りません。できるだけ少ない勉強量で、(学習指導要領に関係なく実生活で)必要なことを多く学べるような「しかけ」があるわけです。「小さい負担で大きい効果」が教える側の腕の見せ所という教育観が出ています。

私自身も、文章題のこの「しかけ」に気付いてからは、教科書には、低学年からふりがな付きで、未習の漢字も入れ、読み書きを意図的に習得させるのは学年配当の漢字のみというスタイルでいけばいいのではないかと思うようになりました。テスト勉強をしなくても、目に触れたことがある漢字なら、習得しようとするときに、初めて見るよりは覚えやすいに違いないからです。

にほんブログ村 教育ブログ 小学校教育へ
にほんブログ村
カテゴリ
プロフィール

ハーモニー108

Author:ハーモニー108
FC2ブログへようこそ!
1995年早生まれの男の子(ミント)、1997年生まれの女の子(パセリ)の母親です。主として、目からウロコが落ちるステキな子育て・学力養成の理論&実践方法を提供しているどんぐり倶楽部について書いています。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
FC2カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。